思考の遊園地回廊 #10

命ばっかり / 6年後に好きな人と仕事するわたし

243日目:フルクサスと自作の反省、振り返り

昨日のTLで音楽批評系の人がHarry Edwardsにおけるジャパニーズゲットーについて話しててて、Twitterを遡ったところ初出は2009年らしいんだけど、どうやらこんな意味らしい。

 

同ツイートで引用されているのはビリー・アイリッシュ特集でのtomadさんの寄稿なんだけど、確かに日本って保守的というか、日本のカルチャー内から逸脱するのってすごく難しい。そういう音楽聞いてる人なんだ!って扱われるし、自分も実際そういう"敷居の高さ"ゆえにずっと横文字から距離を置いてきた。特に両親が洋楽を全く聴かず、音楽好きの友人がいるわけでもない、となると、日本の音楽シーンから逸脱するのってものすごい難しいと思う。良くも悪くも特殊だから。

 

さて、よくわかってない話はこの辺にして。

フルクサスってすごいね。さっきYouTubeでラ・モンテ・ヤングの「Composition 1960 #10」を聴いたんだけど、文章だとわからない意味をスッと悟ったというか、とにかくグッと来た。ヤングの言葉に「普通は見るだけのものを聴くこと、あるいは、普通には聴くだけのものを見ること」ってのがあるらしいんだけど*1、それをもっとも体現した曲だと思った。わたしはいつも色を視るようにしているというか、例えば歩きながらその色を疑い、音空間を疑い、空気を感じてるんだけど、そうしたことの一つ一つをより解像度を上げて、疑いの目を向けること。反転させること、ううん、反転ですらないかもしれないけれど、"音楽""イヴェント"という言葉を用いて問題点を浮かび上がらせること、これこそがフルクサスなんじゃないか!!と脳に衝撃が走った感じ。すごい。

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というか素人による演奏っていう点を強化するならば、拙作「紮紮實實」なんかちょっとフルクサス的だし*2、「ニューロンの悪戯」は紛れもないオスティナートである*3。エセ現代音楽もあながち間違いではなかったんだろうか?

 

てか勉強を進めるにつれて、それまでなんとなくやっていた段ボールなど日常に落ちている既製品で絵を描く行為や、支持体にチョコのくず紙や付箋を張り付ける行為に名前がついていたことを知った。一つ目はデュシャンレディメイドに通じるし、二つ目はラウシェンバーグが行ったコンバイン・ペインティングに他ならない。画廊通いも無駄ではなかったのか……実際にアカデミックな知識を参照すると確信をもって創作に取り組めるから良いな。もっとも、過去を参照した時点でそれはモダニズムでしかなく、現代美術でもなんでもないのだけれども。

*1:木石岳「やさしい現代音楽の作曲法」, 自由現代社刊, 2018, p.153

*2:この楽曲は主旋律とコード以外、楽器演奏に関してずぶの素人であるわたしが全パートをインプロで演奏することで成立している。ただ"単一指示"ではないから、やはりフルクサスとは違うかもしれない。

*3:作曲後にスティーブ・ライヒを学び、反復されているリフがPiano Phaseに似ていることを発見した。偶然とはいえ非常に興味深い。