思考の遊園地回廊 #10

命ばっかり / 6年後に好きな人と仕事するわたし

250日目:NAKED

本屋に行くためだけに都心に行った。

ホルベイン工業株式会社が発行する『絵具の科学』が読みたかった。今すぐに使うわけでもないし、別に中西のように絵具を自作しようとも思っていなかった*1。開店直後の書店は大行列ができていた。三密のスローガンが泣くよ。検索機を占拠すること数分、9階から1階まで目当ての本を探して回る。

本屋に来るのは今週で2回目だった。アマゾンが品切れだらけの昨今、こうしてリアル書店で出会いを求め彷徨うのはとても心地いい。たとえば今週のはじめに偶然手に取った韓国文学のように。

 

思いがけず七菜乃さんの写真集*2を見かけた。村田兼一写真のファンである私にとって、七菜乃さんは本当に特別な存在である。唯一にして絶対。人間にして人形。エロスにして聖女。淫靡にして少女。彼女の肉体と雰囲気が醸し出すアンビバレンスを、私は高校生のころから本当に愛している。

しかし私の育った家庭、特に母は性に関する話題を異常なまでに嫌う(その理由も知っているので私は一概に非難できない)。故に私は成人するまで彼女の映った写真集を買うことは叶わなかった。買った時の喜びはひとしおだった。禁忌を覗き見るような興奮と圧倒的な美しさで気が狂いそうだった。村田がドイツなど西欧諸国で出版した写真集はプレミアがついて買える価格ではなかったが、以前京都に行った際に、ある居酒屋で偶然見せていただくことができた。顔見知りの住むシェアハウスに行った時にも彼の写真集があった。思えばことあるごとに出会ってる。

vvstore.jp

 

話を戻そう。そんな彼女が写真家として鮮烈なデビューを飾った写真集。画面いっぱいを埋める女体。人工的なまでに並べられたそれは、群像のようで、はたまた西洋画的だった。

イギリスの美術史家、ケネス・クラークは『ザ・ヌード』の中でこう語っている。

裸(ネイキッド)とは単に服を着ていないということであるが、裸体(ヌード)とは芸術の一形態である

ありのままの状態であるNAKEDに対し、そこに意図が介在するNUDE。現代美術作家・やなぎみわによる本書のインタビューで、彼女はヌードを服装だと語る。

裸になることが本来の自分になることであるのに対して、ヌードは裸を見られることである。それは慣習化された芸術の一形態でしかない。"ときおり男性的視線を孕んでいる"とやなぎに指摘される七菜乃の目線は、そういったヌードのエクリチュールを反映してのものであろう。しかし彼女の写真には男性的な歴史であるヌードのステレオタイプには陥らない。レンズは時に裸体の持つエロスを通過して全体を捉え、無効化する。それは自身のモデル経験を反映するかのように無意識的に、冷静に、裸体をモノへと還元していく。

 

彼女自身が、カメラの持つ一方向性を感覚的に悟っているのが興味深かった。「モデルとして撮られているときは自分がモノであるかのような感覚に陥るんです」。自らの振りかざす視線の暴力性を重々自覚したうえで、あえて暴力的に彼女自身の美学を切り取る。そうすることで旧来ヌードと表裏一体であった性的視線が無臭化され、性視線を脱臭したヌードという矛盾ができあがる。小物や身長の高さなど、細かい部分を統一することによって、彼女自身が提唱する、多様性の美しさが浮かび上がってくる。 それは、所有者としての鑑賞者へある種の性的な視線を向ける19世紀絵画の裸体*3とは相反する存在だ。

描き出す対象をきわめて冷静に捉え、モノへと還元していく手法は、笹山直規の死体画における視線の役割と似たものを感じた。人間であるが故に人間存在に向けられるタブーを、残酷なまでに解放し、我々に疑義を投げかける。見事なものである。

 

帰宅後、Alva Notoの即興演奏映像を観た。

www.youtube.com

坂本龍一との共演で知られる~という触れ込みをツイッターでみたけど、音源とか聞いた感じクラフトワークっぽいな、、、

って思ったら本当にドイツの人なんかーい*4

坂本龍一といえばワタリウム美術館アーカイブナム・ジュン・パイクの追悼ライブの模様が上がっていたなあ。

vimeo.com

長いのでまだ全部は見れていない。浅田彰が話すのを初めて見て、好感を持った。

*1:林道郎『絵画は二度死ぬ、あるいは死なない 5』の中に中西夏之がオリジナル調合で絵具を自作しているであろう、との記述がある。

*2:https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%83%E8%8F%9C%E4%B9%83-%E5%86%99%E7%9C%9F%E4%BD%9C%E5%93%81%E9%9B%86-My-Aesthetic-Feeling/dp/4875865643

*3:ジョン・バージャー(著), 伊藤俊治(訳)『イメージー視覚とメディア』,2013, 筑摩書房刊, p.84

*4:wiki参照