思考の遊園地回廊 #10

命ばっかり / 6年後に好きな人と仕事するわたし

234日目:今朝の朝ランは平均6:33

岡本太郎の『今日の芸術』を読んだ。

 

表現することの責務、なんでもなさ、偏執的な狂気について考えた。

僕にとってできるのはきっと何でもない線の反復というよりかはオリジナリティに富んだ創造の一端で、それがしたいからこそ美大に行かずイラストレーションを専門に勉強することもしなかったのだと思う。感想文をしたためるよりも先に絵が描きたくなり、そうするべきだと感じたので、思うままに絵を描いた。エゴと汚さが表出して特定の個人に近づきすぎた絵になった。しかし、間違っているとは思わない。

 

齋藤はぢめ|トモトシ カモフラージュゼロ」を観た。

26日までだった展示の映像作品を26日夜のギリギリにレンタルし、同じくギリギリの29日に視聴した。「配る人」「ARIGATO MASK」「Elevator Girl」と齋藤の作品がこちらを焦らせるような街中でのゲリラ撮影によって構成されているのに対し(それでいて小道具や仕草などは洗練されていて巧妙だ)、トモトシの作品は映像の進め方が非常に鮮やかだ。09:37、10:04、06:37と決して短い動画時間ではない上、絵面も決して派手なものではない。にも関わらず軽い口当たりでスッと見れたので、この人は比較的撮れる人なのだと感じた。

今回わたしがレンタル購入を決めたのは予告編で5本目の「シックス・エアセックス」に惹かれたからに他ならないのだが(しかも同作にはわたしがポリアモリーについて調べたとき衝撃を受けたきのコさんも出演されている)、他の「イフアイムーブミー」「バリエーションルート」もカメラ割りが練られており、場面転換を促す編集が本当にうまいなあと感心してしまった。特にメインビジュアルにも据えられている「バリエーションルート」では、白いChampionのプルオーバーと比較的暗い色の服を着ている通行人とのコントラストが鮮やかで、映像を切るタイミングも絶妙。現代美術の映像作品は退屈して観るのがきつくなる場合もしばしばあるのだが、これは鑑賞者のことを考えて作られていると思った。

さて、感想に移ろう。

私は両者の作品において共通して人々の脆弱さ、いわば「騙されやすさ」のようなものが描かれていると感じた。コロナウィルスが蔓延し、早くもデマが流れ、世間は混迷を極めている。学生も社会人も皆が危機に瀕し、それまでの生活スタイルを変えざるを得ない状況へと追い込まれている。そんな中撮影され、世に出された以上は、そのティピカルな意識を攫っていて当然といえば当然なのだが。

そしてどの作品も、行動する"主体"としての美術家と、"環境"として存在する通行人のコントラストが鮮烈だ。齋藤は積極的に人々に関わり、その衣服に対応した役割を演じる。人々はその行為を仕事としてありがたく受け取り、なんの疑いも持たない。もちろん何名か突っ込んだ質問をしようとする輩もいるが、ごく少数だ。これはこの一連の危機に対する国民の政治的関心の薄さと、思考力の低下を示しているのではないか。

平和は結構なことだと思う。尊ぶべきだし、わたしが毎日絵を描いたり本を読んだり、好きな時にライブに足を運び、ギャラリーをはしごして23時近くに帰宅するのも、平和な街があってこその恵まれた生活だろう。しかし同時に思考停止することは違う。平和の温泉に頭までつかり、すっかりのぼせ切ったままでは、寝首を掻かれても文句は言えまい。常に警戒してばかりでは疲弊してしまうが、悪魔はわかりやすい服なんか着ていない。優しさの中にも一抹の疑問を持ち、ひとつひとつ答えを出しながら生きていくこと、それこそが民主主義国家に生きる国民としての責務なのだ。

 

一方トモトシの映像では美術家は特に"社会"に干渉しない。ただ生き、行動するのみである。むしろ"社会"である通行人のほうが、トモトシの行動に翻弄されているようだ(自分がその場にいたらごく当たり前の反応ではあるが)。「イフアイムーブミー」では車道を台車で通行し、西新宿の民家から西荻窪にある中央本線画廊へと移動する。台車には机、ソファ、冷蔵庫をはじめとした自室の家具が載せられている。彼はマイペースに車道を歩きながら、吉祥寺(地理的に謎だが)、阿佐ヶ谷、と次々と歩を進めていく。

 

「シックス・エアセックス」では6人の男女による擬似セックスの模様が撮影されている。同じ部屋で同じように生殖行為の模倣に耽りながら、その瞬間6人は6人が別の世界を観て、別のことを考えている。ある女の喘ぎ声が部屋に大きく木霊する。ある男の卑猥な言葉が反響する。あまりにもリアルなそれは、想像の他者でも成立してしまうのだ。セックスは相手がいないとできない行為だ。しかし、性のことをあまりにタブー視するあまり、僕らはその行為のパロディと現実を混同しつつあるんじゃないか?あまりにも当たり前なことだからこそ。

私は長いこと性に関する話を避けてきたし、今も得意なわけではない。しかしそうやって避け続けるあまり偏った思想に傾倒している部分はあると思う。少女漫画や乙女ゲーム的価値観の中に息づく「女は服従するもの」という意識もその一つだ。プレイ的に楽しむのは結構だし、フィクションの中だからこそその性癖の人がコンテンツを楽しむ自由はあってもいいと思うが、行き過ぎた人格否定が大手を振ってまかり通る世の中もどうかと思う(Rejet「DIABOLIK LOVERS」の女子中高生における流行など)。

一方で、現実で男性恐怖症ぎみな部分を克服し、ようやく異性も人間であるということを肯定できたところで、何度か怖い目にあっているのも事実だ。女系家族に生まれたわたしの男性観は優しい父親とそれ以外の怖い世の”男性たち”という虚妄で成り立っていたが、いくら学友たちが無害で優しくしてくれても、同じように真面目で理性的な異性ばかりでないことは何度か身をもって学んだ。

 

昨日、素童さんによるTENGAのレビューを読んだ。

note.com

〈女性への幻想〉からの解放としてのTENGAを語る彼の文章に、以前知り合いが「結局自慰のほうが好き」と話していたことを思い出した。それは概ね同意する。私に経験や知識があまりないからかもしれないが、私もセックスはあんまり好きではないというか、あれは他者とのコミュニケーションであり、性欲解消のためのものではない気がする。愛の確認であり、そこに愛がなければそんなものはできない。

自慰行為が本当に日々発生してしまう性欲の解消としてしか存在していないなら、それによって実際に他者を傷つけることがあってはならない。それは単なる加害である。エアーセックスは自衛であり、同時に正しい性欲発散の在り方だと思う。

 

「バリエーションルート」では、2つの異なる映像が映し出される。左側にエスカレーター、右側にエレベーター。白い服を着たトモトシは微動だにせずこちらを凝視しており、人々は少し邪魔そうにしつつも、特に関わることもなく場面だけが変わっていく。新宿駅東南口、デパ地下、渋谷マークシティ小田急線構内。普段よく使用する東京の何気ない雑踏に、異質なまでに存在する彼のまなざしは、すごく不自然なのに、誰も積極的に関わろうとはしない。私はここに東京の冷たさというか、都市の冷酷さと形ばかりの個人主義を感じ取った。生まれてからずっと東京に暮らしている以上、空気感が当たり前のものだと思っているが、昨今のコロナ騒ぎをややこしくさせているのはこの都市が持つ自己責任論なのかもしれない。日本人は規律を守る、素晴らしい民族だと定期的に喧伝しておきながら、一方でクレームがまかり通り、女性蔑視は改善されない。

何にせよ面白い作品だった。もっと早く見ていれば中央本線画廊に足を運べたのだが。