264日目:pianism #4
*1:精神的にひどく落ち込んだ時リンゴはとてもよく効く。私だけらしいが。
263日目:骨折
家に帰って母に話したところ(母は家族で唯一絶対音感がある)、そんなの当たり前じゃないと一蹴されたが、本当に感動した。記譜法にはまだまだ私の知らない美しさ、洗練された美学が存在するのかもしれない。いやー、本当にうれしかった。
*1:ミシェル・ローリセラ『モルフォ人体デッサン』,グラフィック社,2019
*2:これは持論だが、油絵(とくに写実画)を描くと人間の肌のレイヤーが増える。肌を知ると、他の部分のレイヤーも増える
*3:5/29追記:画像はSoundQuest(https://soundquest.jp/quest/prerequisite/about-prerequisite/)より。自分で気づいて本当に感動したが、準備編で解説されてて改めて自らの無知を自覚。まあ自分で気づけた快感が最高だったのでいいですが…
256日目:each day I run because you run
出社が増えてブログを書く余裕がなくなってきた。
でも忙しさに身についた習慣をやめてしまったら元の木阿弥だと思うので、ジョギングも詩の朗読もできる範囲で継続している。
昨晩は7km走った。当初は7kmでも12kmでも涼しい顔で走っていたのだが、最近7km前後で辛くなってきた。勿論以前より速く走っているのもあるが、疲れだろうか?
同じ身長の友人が6:30くらいのペースを維持しながら12kmを走っているのを見ると、ラップ5分半で7kmというのはそれなりに高負荷だとは思うが、加減がわからないのと道の都合でしばらくはこのメニューで行こうと思う。
ナイトランは別に好きでも嫌いでもないが、同じことを気が遠くなるまで続けるというのは性に合っている。何かを行うときに意識的にやるとすぐ逃げてしまうというか、たとえば絵なんかもある一定のラインを越えたらそれは線を引くだけの作業だ。画面の訴求するまま、色を塗るだけの動作だ。自転車が好きなのも、まっすぐに走っていればいいからである。ダイエットがいつもうまくいかないのもここにあるのかもしれない。筋トレは能動的に回数を数えなければならないし、食事制限は能動的に栄養をコントロールする必要がある。意識的に物事をやるのがあまり得意でない私には、案外このジョギングというものも合っているのではと4週目にして思い始めた。
最初は携帯も持たず短パンにTシャツ1枚で闇雲に走っていたが、友人や知人がこぞってランニングを始めたので私もアプリを導入した。数日間はiPhoneの重さが気になって仕方がなかったが、音楽を流すようになってからはそれも考えなくなった。ちなみに音楽はコンディションにかなり影響する。Poter Robinsonを聴きながら走るとタイムが異様に落ちる。逆に同じEDMでもZeddはほぼ影響しない。テンポの問題だろうか?
Zeddの『Clarity』は2012年リリース、Poterの『Worlds』は2014年作だ。この2年の間にEDMシーンに何か音楽的変化があったのか…私は2014年のリマスター版でZeddを知ったので、体感としては2014年の印象が強い。
ひとまず各々のリードトラックを見る。「Clarity」は128BPM。検索するとランニング用のMIXなどにも収録されている。一方、Poterの代表作「Sad Machine」は89BPM。アルバムの他の楽曲も、90、96…と100以下の数値が目立つ。
値をとったところ以下の図のようになった*1。
驚いたことに、ZeddはBPMがほとんど128で固定されている。道理でアルバムを通して聴いていても走りやすいわけだ。一方Poterはレンジ*2が51にも及ぶ。いや、5/10のSecret Sky明けで感極まってPoter以外聴けない身体になっていたとはいえ、これで走るのは愚の骨頂である。…踊るならまだしも。
ちなみにマイブームはピアノの音を聴くことなので、昨日はラヴェルを聴きながら走った。おどろおどろしいとこでちょっと怖くなった。選曲によるねこれ。ストラヴィンスキーもやってみたんだけどいまいちだったのよね。あと長い曲もよく迷うんだけど、この前Maxophoneを聴きながら走ったら具合悪くなったのでプログレはダメな気がする。
という所感でした。またね!
251日目:翻訳のおはなし
Google翻訳にハマった。
Googleの検索窓に「翻訳」と打つと、自動翻訳のボックスが出現する。
左のボックスに翻訳したいテキストを打つと、右のボックスに指定した言語の訳語が出現する仕組みだ。
なんて、自動翻訳サイトに慣れ切った人々には説明不要だと思うが。
言語は全部で109種類。最近TLでよくマラヤーラム語を見かけると思っていたが、これで出せるのか。
誰の影響かは大体というか9割方想像がつくけどあえて触れないでおく。
നിങ്ങൾ മാത്രം あなただけ
എനിക്ക് നിന്നെ ഇഷ്ടമാണ് 君が好きだよ
たのし~~~!!!!!しかしこれだけではなんか影響受けてるみたいで腹立つので趣味レベルにとどめることにする。私だけわかっているかのような背徳感がゾクゾクするねこれ。
以前文字化け歌詞の曲をリリースしたけど、どうしても承認欲求と優しさからデジタル媒体に歌詞を乗っけてしまったので、これを画像、もしくはコピペ不可能な媒体にするという狂気をやれる人間はすごいな、と思う。私も一回くらいやってみるか。
पारदर्शक 透明
個人的にこのマラーティー語の書体が好みだった。
初の海外一人旅でタイを選んだくらいにはタイが好きだが、タイ語ってあんまり可愛くないんだよね。
そんなこと言いだしたら、「字体がかわいい」って理由だけで日本語もどこかの国のデザインに使用されていそうだけど…
250日目:NAKED
本屋に行くためだけに都心に行った。
ホルベイン工業株式会社が発行する『絵具の科学』が読みたかった。今すぐに使うわけでもないし、別に中西のように絵具を自作しようとも思っていなかった*1。開店直後の書店は大行列ができていた。三密のスローガンが泣くよ。検索機を占拠すること数分、9階から1階まで目当ての本を探して回る。
本屋に来るのは今週で2回目だった。アマゾンが品切れだらけの昨今、こうしてリアル書店で出会いを求め彷徨うのはとても心地いい。たとえば今週のはじめに偶然手に取った韓国文学のように。
思いがけず七菜乃さんの写真集*2を見かけた。村田兼一写真のファンである私にとって、七菜乃さんは本当に特別な存在である。唯一にして絶対。人間にして人形。エロスにして聖女。淫靡にして少女。彼女の肉体と雰囲気が醸し出すアンビバレンスを、私は高校生のころから本当に愛している。
しかし私の育った家庭、特に母は性に関する話題を異常なまでに嫌う(その理由も知っているので私は一概に非難できない)。故に私は成人するまで彼女の映った写真集を買うことは叶わなかった。買った時の喜びはひとしおだった。禁忌を覗き見るような興奮と圧倒的な美しさで気が狂いそうだった。村田がドイツなど西欧諸国で出版した写真集はプレミアがついて買える価格ではなかったが、以前京都に行った際に、ある居酒屋で偶然見せていただくことができた。顔見知りの住むシェアハウスに行った時にも彼の写真集があった。思えばことあるごとに出会ってる。
話を戻そう。そんな彼女が写真家として鮮烈なデビューを飾った写真集。画面いっぱいを埋める女体。人工的なまでに並べられたそれは、群像のようで、はたまた西洋画的だった。
イギリスの美術史家、ケネス・クラークは『ザ・ヌード』の中でこう語っている。
裸(ネイキッド)とは単に服を着ていないということであるが、裸体(ヌード)とは芸術の一形態である
ありのままの状態であるNAKEDに対し、そこに意図が介在するNUDE。現代美術作家・やなぎみわによる本書のインタビューで、彼女はヌードを服装だと語る。
裸になることが本来の自分になることであるのに対して、ヌードは裸を見られることである。それは慣習化された芸術の一形態でしかない。"ときおり男性的視線を孕んでいる"とやなぎに指摘される七菜乃の目線は、そういったヌードのエクリチュールを反映してのものであろう。しかし彼女の写真には男性的な歴史であるヌードのステレオタイプには陥らない。レンズは時に裸体の持つエロスを通過して全体を捉え、無効化する。それは自身のモデル経験を反映するかのように無意識的に、冷静に、裸体をモノへと還元していく。
彼女自身が、カメラの持つ一方向性を感覚的に悟っているのが興味深かった。「モデルとして撮られているときは自分がモノであるかのような感覚に陥るんです」。自らの振りかざす視線の暴力性を重々自覚したうえで、あえて暴力的に彼女自身の美学を切り取る。そうすることで旧来ヌードと表裏一体であった性的視線が無臭化され、性視線を脱臭したヌードという矛盾ができあがる。小物や身長の高さなど、細かい部分を統一することによって、彼女自身が提唱する、多様性の美しさが浮かび上がってくる。 それは、所有者としての鑑賞者へある種の性的な視線を向ける19世紀絵画の裸体*3とは相反する存在だ。
描き出す対象をきわめて冷静に捉え、モノへと還元していく手法は、笹山直規の死体画における視線の役割と似たものを感じた。人間であるが故に人間存在に向けられるタブーを、残酷なまでに解放し、我々に疑義を投げかける。見事なものである。
帰宅後、Alva Notoの即興演奏映像を観た。
坂本龍一との共演で知られる~という触れ込みをツイッターでみたけど、音源とか聞いた感じクラフトワークっぽいな、、、
って思ったら本当にドイツの人なんかーい*4。
坂本龍一といえばワタリウム美術館のアーカイブでナム・ジュン・パイクの追悼ライブの模様が上がっていたなあ。
長いのでまだ全部は見れていない。浅田彰が話すのを初めて見て、好感を持った。
249日目:詩と発声、発生する音素は明瞭に音を立てて逡巡する
現代詩の朗読をはじめた。
小笠原鳥類の詩集に、寄稿の分がいくつかあって、そのうち榎本櫻湖がこんなことを言っていた。
現代音楽を聴いたことがないものにとってそれはどれもおなじもののように聴こえ、音楽というより雑音でしかないと感じてしまうひとも少なくはないようだが、おなじように、現代詩も慣れないものにとってはこれが詩なのかと困惑してしまうのだろうが、現代音楽も、そして現代詩も、やはり慣れは重要で、反復してくりかえし読むことでそのよさがだんだんと理解できてくるのだろうが、*1
私も反復練習は必要だと思っていて、例えば書籍*2で現代美術に関する基礎知識を読み、TLで美術情報を追う癖をつけた結果、それまでカタカナばかりだと思っていた知識が急に明瞭に眼前に立ち上がるといったことがよくある。
前に笹山直規さんの個展にお伺いした時、ひょんなことからダミアン・ハーストの「桜」の話をしたが、その時まだ生々しい覚えたての知識でも、文献で彼のことを軽く学んでいてよかったと思った。しかしまだ現物は見ていないし、文脈として正しく理解しているわけでもあるまいと思うので、これ以上の言及は控える。
それよりもふいに、予期せぬ瞬間に、偶発的に出会ってしまうことでいっきにひきこまれてしまうだけの魅力が彼の詩にはたしかにあって
榎本はこう畳みかける。確かにそうだ。朗読をはじめて3日が経つが、1日目、2日目に読み上げたときに感じた頭の中がぐちゃぐちゃになる感じが今日はなくて、純粋な音の歯切れの良さ、光景のもたらす偶発的なイメージを楽しめるまでになった。その身体的な言葉選びは気づけば私の口を突き動かし、感情を規定する。色のように歌い、音楽的にリズムを刻む。完璧だ。
これは読まれるために生まれた言葉だと思った。
劇団時代の記憶を思い出す。発声練習にと虚誕な言葉をよく読まされていた。鳥類の詩はそうした感覚に近い。一見無意味のようにありながら、意味への思考を放棄した途端、すっとイメージが立ち上がる。その瞬間は実に興奮するものだった。
話は変わるが、岩切一空の新作映画『第七銀河交流』を観た。
イソラさんの映画は『聖なるもの』で初めて見て、個人的にわけわかんないけど皆が絶賛してるしで頭の中ぐちゃぐちゃだったんだけど、そのあと本人にお会いする機会があったけど見事貴重な機会をぶっ潰したのをよく覚えている。
でも、彼を知ってから3年、斎藤工総監督『COMPLY+-ANCE コンプライアンス』を観たときに、はじめてわかったというか、イソラさんの作品に漂う透明感と、暴力的ながらきゅっと差し迫るものが在る感じが、巧みだなと思って。わたしが映画に慣れたってのもあるんだろうけど、とにかく、あの作品はとても良かったんだ。
今作はリモートで撮影されたらしいけど(コンプライアンスの舞台挨拶の中でも少しだけそのことを言及してましたね、)リモートとは思えないくらい岩切色がゴリゴリに出てて、めちゃくちゃ良かった。切ないんだよ。そういう意味では小笠原鳥類に似てる部分があるのかも。やっぱり早稲田色ってあるのかなあ。
そのあと今泉さんの『MILK IN THE AIR』を観ましたが、確かにこれはMILK可愛い動画だなってだけでした。画質がいいですね。私は大好きなラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」を流しながら見たので、無性にソワソワする羽目になりましたが…。
しかしこのSHINPAという在宅映画製作シリーズ、個人のポテンシャルが露わになってどぎついな、、、、、(良くも悪くもです。大勢で作るのが上手い人もいるし、一方でリモートだとマルチな才能に有利というだけの話)
243日目:フルクサスと自作の反省、振り返り
昨日のTLで音楽批評系の人がHarry Edwardsにおけるジャパニーズゲットーについて話しててて、Twitterを遡ったところ初出は2009年らしいんだけど、どうやらこんな意味らしい。
宛ら、アメリカへ留学した日本人が結局現地でも日本人同士でつるんでしまうかのように、日本から聴かれているデータに偏ってしまうと、リコメンドのアルゴリズムによって、ストリーミングプラットフォームという都市の中に日本人街のようなものが形成され、そこに隔離されてしまう…という。
— コアト (@CORETOMAYU) 2019年11月20日
同ツイートで引用されているのはビリー・アイリッシュ特集でのtomadさんの寄稿なんだけど、確かに日本って保守的というか、日本のカルチャー内から逸脱するのってすごく難しい。そういう音楽聞いてる人なんだ!って扱われるし、自分も実際そういう"敷居の高さ"ゆえにずっと横文字から距離を置いてきた。特に両親が洋楽を全く聴かず、音楽好きの友人がいるわけでもない、となると、日本の音楽シーンから逸脱するのってものすごい難しいと思う。良くも悪くも特殊だから。
さて、よくわかってない話はこの辺にして。
フルクサスってすごいね。さっきYouTubeでラ・モンテ・ヤングの「Composition 1960 #10」を聴いたんだけど、文章だとわからない意味をスッと悟ったというか、とにかくグッと来た。ヤングの言葉に「普通は見るだけのものを聴くこと、あるいは、普通には聴くだけのものを見ること」ってのがあるらしいんだけど*1、それをもっとも体現した曲だと思った。わたしはいつも色を視るようにしているというか、例えば歩きながらその色を疑い、音空間を疑い、空気を感じてるんだけど、そうしたことの一つ一つをより解像度を上げて、疑いの目を向けること。反転させること、ううん、反転ですらないかもしれないけれど、"音楽""イヴェント"という言葉を用いて問題点を浮かび上がらせること、これこそがフルクサスなんじゃないか!!と脳に衝撃が走った感じ。すごい。
というか素人による演奏っていう点を強化するならば、拙作「紮紮實實」なんかちょっとフルクサス的だし*2、「ニューロンの悪戯」は紛れもないオスティナートである*3。エセ現代音楽もあながち間違いではなかったんだろうか?
てか勉強を進めるにつれて、それまでなんとなくやっていた段ボールなど日常に落ちている既製品で絵を描く行為や、支持体にチョコのくず紙や付箋を張り付ける行為に名前がついていたことを知った。一つ目はデュシャンのレディメイドに通じるし、二つ目はラウシェンバーグが行ったコンバイン・ペインティングに他ならない。画廊通いも無駄ではなかったのか……実際にアカデミックな知識を参照すると確信をもって創作に取り組めるから良いな。もっとも、過去を参照した時点でそれはモダニズムでしかなく、現代美術でもなんでもないのだけれども。