411日目:現実が遠いならVRでせかい作ろ①
お久しぶりです。
勉強を投げに投げ、生活を投げに投げ、死んだような日々を送っていました。
ひょんなこと*1から昨日STYLYの勉強を始めた。
で、作ったものがこちら。
音楽は大好きなヨシノさんの曲をひとまず。これからいろいろいじっていこうと思ってる!
個人的にびっくりしたのが動物がかすかに息をしている描写があること。あとはライティングから何から手軽すぎて本当に楽しいね。やばい。
画像を天球(スカイボックス)に張り付けられるのはすごく楽しいが、末端部分が歪むのが気になるんだよな。。。
調べたらPanoPainterというアプリが便利そうなので導入を検討しようと思う。
なんかSTYLYユーザでも使っている人いるっぽいし。
噂の呼吸するヒョウです。
構成としては、KMNZのアワーズ獲得作品?みたく球状の世界を複数つくり、そこを移動する形か、誘導型を考えているけど、おそらく後者のほうがいいんだろうな。
誘導型にするなら物語をつけたい。いくつかのイラストレーション、そして写真から構成し、架空の「キミ」との記憶を探し続ける物語。
生まれ変わったら何がしたい?天国に行けたら、大好きな人がそばにいたら何をしたい?
そうだね、私は音楽が作りたい。歌がききたい。優しく頭をなでてほしい。世界の終わりみたいな、広くて、静かで、だれもいない場所に行きたい。水面にいたい。海に行きたい。ピンク色の空と、くすんだ灰色の世界をみながら、ああもう終わりだねって言って、キスをしたい。あなたの細くてきれいな髪を梳きたい。水面の真ん中に、クローゼットがある。お洋服がたくさん入ってる。おわりの国へと電車が走る。
ベッドがたくさん浮いている。ソファも。白くてきれいな空間だった。君のコーラスが鳴り響いていた。電子音が落ちてくる淡いイエローの針。
あなたのつくるご飯が食べたい。わたしはお菓子を作るから。きみの創作物で体を満たし続けたい。君の思念で、あるはずのもので。僕は人形に近いけどかろうじて自由意思のある我儘な存在だった。天国でそれは罪だからほんとうのわたしは殻に閉じ込められている。シェルター。そのなかに思い出が詰まっているの?初めて会ったときに好きだって思ったこととか、勝手な美しい記憶の数々とか。全部、全部。
そういえば裸のマネキンもあった。白。いやだなあ。水玉。雪が降っている。
309日目:Solaris
IAMASのオープンハウスがもうすぐで既にワクワクしている。
受験期から薄々悟ってはいたがわたしは本当に動画講義が苦手なようで、定期購読しているプログラムはなかなか視聴が追い付かないが、頑張って続けている。美学校の隔週授業ですら予復習がギリギリなのだから本当にキャパ限界なのかもしれない。
今日は長谷川愛オススメ選書リスト*1に載っていた名作SF『ソラリス』をいよいよ読了した。本質的に私の宗教観とかなり近い本作は、『ハーモニー』ほどのバイブルにはなりえずとも、私の思考領域に多大な影響をもたらしたし、読了後これは自分で購入しなければならない、と確信した。
作中に頻繁に登場する"anthropomorphism"…すなわち「人間形態主義」、稠密性、ジンテーゼ…といったワードはどれも馴染みがたく、しかし理解せねばならぬと思ったからだ。レム自身が自作の映画化についてかなり批判的だったことで(特に『ズヴェズダー*2』に寄せられた彼のエッセイはかなり衝撃的だった)、私は名作と名高いタルコフスキーの『惑星ソラリス』を見るのに若干躊躇を覚え始めてしまったのだが、なんにせよこの作品はSFの陥りがちな典型化にスッと刀を差すような挑戦的作品であると感じた。
訳者コメントに引用されていたイヴァン・エフレーモフやメルヴェル『白鯨』といった作品も機会があれば読んでみたい*3。
話は変わるが、後輩とトナカイ鍋に行く約束をした。やったー!
298日目:猫も杓子も結局ノイズ
最近全然読書も勉強も捗らず、怒涛の楽曲制作と〆切告知祭(と反省会ラッシュ)を乗り切るのに必死だったのですが、先日このブログを読み返しているときに気づいた。私一か月以上同じ本*1読んでる。
音楽史の話は横文字が多ければ多いほど辛くなるのですが、ハウス・ミュージックの歴史など横文字祭りなわけで、しかし一番最初に学ぼうとしたOTOTOYインターン時代に比べては遥かにバックボーンとなる知識が増えていたため少しは意味が理解できた。imdkmさんの本を読んだときは全楽曲その場で再生しながらじっくり読んでいたのでありえないほど時間がかかっていたが、おかげで音楽ジャンルに対する抵抗感がだいぶ薄れた気がする。
ニュービートってほんとにクソ雑ジャンルらしくて、もとはクラブですらない遊園地のジェットコースターBGMとかにノンストップMIXとして採用されてたらしい。無内容でキッチュ。ってそれ、ガバじゃね???????
唐突に頭の中にチラつくLil Texasの筋肉と満面の笑み。脳内に流れ出す割れたキック。だめだ、洗脳されてる!!!!
記事内に京都でNEW DREAMS LTD.のCDを買ったパララックスレコードの店長さんが出てきてびっくりした。わたしここ全然予備知識なしに行って(京都滞在時、検索で出たすべてのレコード屋を回る計画でした)、レコードを踏みつけさせる内装にすごい驚いたんですよ。でもなるほど、マークレイのオマージュだったんだね。毛利桂さん、覚えておきます。
私が行ったときは店長はいなくて、本日休演の樋口さんが店番してた。懐かしい。あの時教えてもらった東京のレコ屋、まだ行けてないなあ。
288日目:Pythonをはじめた
既存のシステムで生成してもよかったというか、最終手段として持っておこうとはいくつか考えていた。でもArtBreederの無料プランが思っていた結果と異なる感じになったから今は自分でプログラム書いたほうがいいのかな、、、という感じです。
敵対的生成ネットワークを過信しすぎてたというか、結構癖があることが調べていくうちにわかってきた。私はポージングの自動生成を試みようとしていたけど、広範囲での深層学習を行うにはちょっと知識が足りないかもしれない。
人間の顔抽出のやり方はこの方のやり方がスマートだと思ったので帰宅後試します。
ひとまずPython+Tensorflowのやり方を掲載している人はちらほらいるので、とりあえずはDCGANの勉強から始めようと思う。頑張ります!
◇自分用メモ◇
https://docs.python.org/ja/3/installing/index.html
https://qiita.com/shu223/items/bd9102a10dd4ec8a86be
https://gammasoft.jp/blog/resolve-not-to-run-python/
https://www.tensorflow.org/install?hl=ja
https://www.creativevillage.ne.jp/72837
274日目:離人カーテンの囚人
群衆の中に昨夜、彼岸からやって来てキーコに宇宙の果ての線路の彼方について語って聞かせた、幻の老婆が杖をついて彷徨っていた。彼女はキーコの死体に向ってささやいた。「あなたの悲しみは今日で終り」
そういえばロロ『窓辺』の3話ももうすぐ更新だろうか*1。先日の2話は良かったなあ。本当に良かった。やっぱり私は常に死を考えて生きてるせいか、物語に死を絡められることに物凄く弱い。弱いし、すぐ泣いてしまうし、愛着を感じる。
本当に自殺をしないように、物語の中で何度も死にたいんだと思う。おかしいよね。
もう長いこと生で演劇も演奏も見てはいないけれど、そのせいか皆と過ごした日々とか、出来事とかが全部夢のように感じる。本当に嘘みたいで、ちょっとだけ昔のことを思い出した。ずっと好きだった幼馴染が、ペアにしたストラップをなくしてしまったこと。バレンタインのお返しはそういえば手作りのクッキーだったな。私がはっきりせずにいるうちに、劇団の女の子と付き合ってた。告白する前に振るなんて、ひどいやつだ。今でもその日のことは、とてもよく覚えている。思えば声が出なくなったのは、あれが初めてだった。
友人と同じ位置にほくろができかけていた。嫌だ、同じになってしまう。私はペアとか、双子という言葉がすごく好きだ。でも私がそうやってかけてきた呪いは、呆気なく放棄されることが常だった。
週末に見た展示が脳裏をよぎる。大好きな画家に会った。沢山沢山絵を観た。喫茶店でクリームソーダを飲んだ。サイゼリヤで豪遊した。お気に入りの白い服に汚れを付けてしまったけど、洗ったら落ちた。
*1:公式noteには次回更新は6月上旬と書いてあった。
267日目:infinity porca dots room
月末、草間彌生美術館『ZERO IS INFINITY 「ゼロ」と草間彌生』に滑り込みで行ってきた。
私は草間のハプニングや国外での活動に関しては浅く聞いたことがあったが、ゼロに関しては初めて聞いた。ただ「0」と「無限」という相反するものを同居させるコンセプトのアンビバレンスに(はたまたコロナ明け前の5/28に一足先に開館し、当初の会期通り31日に閉廊するという挑戦的な姿勢に)、ちょっとゾクゾクしてしまったので迷わずチケットを取った。
ちなみに私の名前はレン、すなわち零だが(無論本名ではない)、わざわざネーミングに空虚で特別なこの数字を選ぶ捻くれた感性といい、若干思想としては似たところがあると思う。烏滸がましいか。
草間彌生美術館は早稲田大学の比較的近くにあるガラス張りに水玉が施された建物だった。朝一番の鑑賞チケットで厳重な警備の中をゆく。5F建ての建物はHPの告知通りそんなに広くはなくて、でも階段のつくりや随所に設置された鏡がその狭さをかえって異世界的に演出していた。特に驚いたのが化粧室だ。全国のお手洗いで一番狂気的なのは間違いなく京都の居酒屋・村屋のVaporWaveトイレだと思うが、それに匹敵するレベルの全面鏡張りトイレである。ピカピカと磨かれた鏡に、一面に貼られた赤い水玉。永遠に続くかのようなミラールーム。特に座った時に自身の身体と便座が接触する部分に巨大な水玉が貼られていたのには笑ってしまった。少し前の妄撮に似たエロスが掻き立てられる。
展示の説明をするのも野暮かもしれないが、これは日記なので最低限の記述を試みる。展示は殆どが2階と3階に置かれ、4階は草間の新作、屋上のある5階では映像作品、といった構成になっていた。スタンダードなホワイトキューブ的2階に対し、吹き抜けの3Fや5Fは明るくて空間的、環境的だ。風通しのよさに、川崎市の岡本太郎美術館を思い出した。この都心で開放感ある美術館をつくれるのはすごい。
以下、作家ごとに簡単な言及を試みる。というか普通に感想です。
■草間彌生
<<無限なる天国への憧れ>>(2020)
<<無限の網(1)>>(1958)
<<マカロニ・スーツケース>>(1965)
<<ファリック・ガール>>(1967)
<<ナルシスの庭>>(1966/2020)
無限の網に白いヴァージョンがあることを知らなかった。爽やかで、どこか回帰的な安心感に包まれる。友人に集合体恐怖症の人間が何人かいるが、私はその逆かもしれない。規則的な羅列に安心する。ミニマリズムを愛しているのはそれが個人を徹底的に脱臭させ、鑑賞者も制作者も同じ次元へと回帰させる(と私は思っている)からだが、わずかな揺らぎが持つ身体性が無意識に僕らの身体に影響を及ぼし、それは時として感銘に変わる。
草間のファルスを象ったソフト・スカルプチュアに私はあまり魅力を感じない、というかむしろ苦手なのだが*2、タブローに惹かれるのはそれがあるからかもしれない。
<<i.k.b petit bleu>>(1957)
<<青の時代の人体測定>>(1960)
<<火の絵画を具現化するイヴ・クライン>>(1961)
ちょうどその日椹木野衣『シミュレーショニズム』を読んでいて、マイク・ビドロがイヴ・クラインのパフォーマンスを揶揄した話を知っていたので、「人体測定」の動画を見たときにビンゴでびっくりしてしまった。こんなこと言うと怒られそうですが正直、金粉AVを思い出した。我々は美術館に通い詰めて、裸体に慣れすぎている。私の中で「ネイキッドは罪ではない!」という意識と「馬鹿野郎!貞淑さを失うな!」という意識が喧嘩している。あーもうやめて……そういえばゴルチエが18/19AWで「乳首にも自由を!」って言ってたな。申し訳ないけど夭折だろうが炎扱ってる時のマジで官能的な目とかモデルの扱い方見ちゃうとやっぱりキッチュにしか思えないんだよな。女体賛美は女がやってこそ純粋…って言おうとしたけど、それはそれで違う気がしてきた!むしろ女体にだけ美しさのアウラを背負わせてることがそもそもの間違いなんだよ!たぶん!!!(先日の七菜乃評と大きく矛盾しますが)
クールダウン。インターナショナル・クライン・ブルーはすなわちホルベイン透明水彩で言うロイヤルブルーではないか?あとやっぱりどうしても布施琳太郎やIAMASのホームページを思い出す…また、モノクローム絵画とは白黒だと解釈しながら解説を読んでいたが、無地であることがモノクロームの意義なのかもしれない。ちょっとこれは調べます。
■オットー・ピーネ
<<煙のドローイング>>(1960)
<<かんむり座>>(1965)
ピーネは哲学を学び、作品は自分自身が描いているのではなく光が描くと主張していた。
飛翔する暗闇、純粋絵画への希求。それが電球の作品と何の因果性があるのか私にはわからなかったが、煙で絵を描く通称・スモークペインティングは面白いと思った。
ところどころ黒の円が真円でなく、削れている箇所がある。マスキングだろうか?マスキングテープって燃えないのか?半透明な箇所も見受けられ、どうやって描いているのか疑問に思った。映像を見たところキャンドルを数本束ねたものを頭の上に横たえたキャンバスに掲げて黒い跡をつけていたが、下書きの線をみながら進めているだけでとくにマスキングなどしている様子はなかった。ますます謎だ…
自分の子供から着想を得た「光のバレエ」などの作品発表をしながら、彼は最終的に「宇宙に絵を描きたい」という構想に至る。それは地球から月までの空間を用いたドローイングだった。
■ハインツ・マック
<<始まりも終わりもない>>(1959)
<<空間の光格子>>(1961-1969)
ハインツ・マックは途中から作風が結構変わったらしいが、たしかに<<空間の光格子>>は、最初に見た縦横に線が引かれたドローイングとは対照的だ。螺旋状の巨大なモニュメントが無機的に輝き、床から照らし出されたライティングが細かに変わり吹き抜けの部屋を明るく照らす。あーこれ好きな人と来たかったな。記憶を共有したくなる。客は多くが一人で来ている風の女性だが、ちょこちょこアベックが見受けられるのもわかる気がした。観光客もいた。
映像資料ではサハラ・プロジェクトのことをカラーフィルムで記録していたが、SF映画のような銀色の服が鏡のインスタレーションと通じるものがあるように感じた。
彼は高校教師であったと紹介する映像とはずいぶん雰囲気が異なり、ふわりとした襟足長めの金髪に、サイバーな装い。『オペラ座の怪人』のラウルみたいな好青年に見えたことが余計にSF感を抱かせた。撮影は1968年らしいから、ちょうど『2001年宇宙の旅』『猿の惑星』などの名作SFが生まれた年でもある。あながち間違いでもないのかも。
■ギュンター・ユッカー
<<LIGHT RELEIF>>(1959)
無数に並ぶ釘。真っ白な画面。規則的なのにゆらいでいる。
作品の前を歩き、のぞき込む角度とともに抽象が浮かぶ。
釘の凹凸が人為的な作業を窺わせて面白い。マチエールはやっぱり楽しいな!
ゲルト・ヴィンクラー曰く、ユッカーの作品はリアリスト*3のために創造の余白を残してあるらしいが、事実まんまとわたしもその質感やフォルムに想像力をまんまと働かせてしまった。悔しい限りである。
彼は弓を使用した作品も残しているが、弓というとどうしても中西夏之を思い出す。しかし中西の弓を用いた作品は1980年ごろから登場しているはずなので、こちらのが全然先ですね。すみません。
彼は三つもアカデミーに通ったらしい。勉強はいくらでもしていい、と背中を押されるようなエピソードですね。わたしも学校行こうかな。
■エンリコ・カステラーニ
<<Surface>>(1962)
これは結構マジで良かった。臙脂色の布?と思しき支持体に釘が表裏から打ち付けられている。規則的な配列により単色の画面は確かな違和感と立体感をもってこちらに訴えかける。
ユッカーの釘が必然性を感じさせないのに対し、カステラーニの釘はすごくロジカルだ。意味的なものに安心するのともまた違う。
純粋に作品としてとても美しいうえに、画面の重層性を一瞬で悟らせてくれる作品。好きです。
■ピエロ・マンゾーニ
<<アクローム>>(1962-63)
<<長い線>>(1960)
<<生きる彫刻>>(1961)
作品→映像の順で見たため、「アクローム」の時点で線について考えてたのかな!と思ったら、こっちのが後だった。
当時結構売れっ子だったというマンゾーニの"長い線"、ローラーに紙をセットして固定しながら描くさまがシュール。終着点には「15 CAPONERA」と記されている。調べたが情報がヒットしないところを見るとイタリアの人名とかだろうか。映像では「たったの20万リラで購入できるなんて!」とさながらジャパネットたかたを彷彿とさせるような早口のナレーションがまくしたてていたが、1960年代時点の20万リラは現在の日本円換算で約48万*4である。全然安くねーよ!!!
てか長い線って、フルクサスのラ・モンテ・ヤングの"Composition 1960 #10"を思い出した。奇しくもどちらも1960年作だけど、どっちが先なんだ!?むしろマンゾーニがヨーロッパのアートシーンで、ヤングがアメリカだったってだけなのかな。
■ヘスス・ラファエル・ソト
<<ヴァイブレーション>>(1958)
ヘススの作品は揺らぎがあるというか、どこかグラフィック的で前にアーティゾンで見たアンス・アルトゥング*5『T1989-H35』を思い出した。
彼は展示会の時よく横でギターを演奏していたという。そう聞いてから見ると細く立体的に張った線はきっとギター弦だし、そうでなかったとしても象徴的に使われていることは間違いない。でも透明だとか、音楽的だとか言われるのはちょっと釈然としなかった。美しく繊細な闇って印象。ギャルソンのドレス*6を好きな理由と似てる。
■フェルディナント・シュピンデル
<<無題>>(1977)
カオリンという素材を初めて聞いた。発泡素材の質感が本当に良すぎる。これ、何をどう購入すれば再現できるだろうか…。正直これだけのために図録買ったところある。
■ヤン・スホーンホーフェン
<<無題>>(1965)
紙粘土で作られた作品。放射状に広がる重厚感と、粘土という素材のもつ卑近さが妙な存在感を生み出していると思った。一番好きなわけじゃないけど、なぜか目が離せなくなる。
■ヘンク・ペーテルス
<<モビール・フェザー 8-14>>(1962-1967)
20分に一度動作するというので待っていたら、やたら派手なモーターの回転音とともに、アフリカハゲコウの羽が部分的に揺れたり揺れなかったりした。音のデカさに対して動きの地味さが日本のB級スポットを思わせる*7。
■クリスチャン・メーゲルト
<<キネティック:回転する2つに切られた円>>(1966)
<<キネティック:回転する3つに切られた円>>(1966)
<<鏡の壁>>(1961/2020)
<<12枚の鏡のモビール>>(1964/2020)
■ルーチョ・フォンタナ
<<空間概念>>(1965)
見た瞬間、アンジュ・ミケーレ*8を観た時の衝撃を思い出したが、影響を受けているのだろうか。アルミニウムの柔い支持体に孔をあけたり、切り込みを入れた作品が知られている*9とのこと。穴の空け方が規則的なのに暴力的で、綺麗だよね。
■アドルフ・ルター
<<凸面鏡のオブジェクト>>(1967)
<<光の錠>>(1964)
<<光の錠>>(1964)
<<光の錠>>は、絵画以外でいちばん美しいと思った。
石みたいでくっついてるのが不思議だった。とろりとしてひかっている柔らかい虫のようだ。蠢くのは蛹に似て、でも透明だからそれは美しい。
下に沈んだ灰色の水はガラスじゃないみたいで、透き通って、わたしは飲み込みそうになる。光の入り方がまどろんでいる。折り重なる永遠を、所有したい、所有したいと思った。許されるだろうか?
じっと目を見て、このひかりをかきとめたい
そう感じた。本当にきれいだ。
ルターは役人として40代まで勤めた後美術家としての活動を始めたらしい。そういう生き方もあるんだなあと。
光で思い出したけどアピチャッポンの映画見たいな。
ゼロとは何か?
ゼロは無ではなくそこから作り出されるものであり、視覚と知覚の言語であり、革命的精神と懐疑的試みの実践でもある。いうなれば「生活の中のアート」といった所だろうか。"0×0=アート"の方程式はしばしば、「それが現実でそれが世界だ」と問いかける。その活動はデュッセルドルフの都市的体質により生まれたものとも言える。ゼロのコンセプトには"なるべく簡単な方法で制作を行う"といったものがあり、その単純化、画一化はデュシャンのレディメイドや、のちに80年代に台頭するシミュレーショニズムに通じるところがあると思う。
今回の来館でそういえば随分昔に森美術館の「LOVE展(2013)」で草間作品を見たことを思い出した。当時ひそかにアーバンギャルドのファンであったため草間の名前は知っていたけど、作品は覚えていない。今検索したけどやっぱりあんま好きじゃなかった。同展はやくしまるえつこの声をインタラクティブ合成した展示と初音ミクを異様にフィーチャーしていた記憶。当時生粋のボーカロイド・オタクであった私もほいほい釣られてジェフ・クーンズやロダンを眺めていたので、何も言えませんが……
蛇足(検索に出てこなかったお話)
機械作品を身にまとい踊りを表現したハリー・クラマーは、ゼロの符号について、世界劇場の構想を掲げている。「ゼロに従ったら作品の表現するものは何もなくなった。だが、それこそがテーゼである!」個人的にこの思想はめちゃくちゃグッと来たし、思想を突き詰めた先に辿りつくのが踊りというのが現代作曲家の川島素晴さんとか思い出してすごい良い。
→ゼロのWikipediaで映像の人物を探したが、中肉中背で骨組みが露出した機械を身体に着用しながらゆったりと踊る人物が見当たらない。名前のスペルが近いのはFelix Krämer、Harry Schmitzだが、両者を混同したか?
→Ferdinand Spindelの記述かと思いましたが、違う気もする。細身の好青年で、確か絵画作品だったと思います。哲学的な思想に惹かれたけど情報がなくて追えず。フィリュウという帽子の中に作品を持ち歩いている人物のことも見つからない(記憶が曖昧すぎる)。
→誰のセリフかわかりませんが、好きです。
オーベルタン
→誰
光のレリーフキネティックおい!ローター!!!?!?!、
→マジでわけがわからん
以上でした。備忘録に長々とお付き合いいただき、ありがとうございました。
知識不足は今後補填します。
*1:『ZERO IS INFINITY 「ゼロ」と草間彌生』序文より要約して引用。
*2:親の教育の賜物か、自身の精神的なものか、わたしはいまだに性的なものに対する根拠のない嫌悪感、罪悪感を物凄く抱いている。しかしそれはあくまで前提というか、靄のようなものであって、自分から切り離されたテーゼとして純粋に思考することが可能なレベルまで相対化はされてきた
*3:抽象画などの芸術作品を見て作者の意図や思想を必要以上に推測し、乗せたがる人々のこと、らしい
*4:当時は固定相場制の時代であり、1ドルは360円、そして625リラであった。現在の物価だと360円は約1500円にあたるので、単純計算で200,000(リラ)÷625×1500=480,000(円)となる
*5:1904.9.21-1967 フランスの画家。ドイツ出身。ドレスデン画を始め、1922年から抽象的絵画を制作。’25年カンディンスキーの講演に感銘しこの傾向に専念、31年にはドレスデンで初の個展を開く。ナチスを嫌いパリに脱出、第二次大戦中は外人部隊に参加、重傷を負い右足切断。’45年パリに戻り画業に復帰し、同年フランスに帰化。カリグラフィックな筆さばきを持つ線描抽象絵画の巨匠として評価されリトも秀作が多い。グッテンハイム賞、ベネチア・ビエンナーレ展大賞等受賞。パリで没。(出典:日外アソシエーツ「20世紀西洋人名事典」,1995)
*6:13AWみたいなブラックで上品で繊細でなおかつボリューミーなやつ
*7:マジでこんなこと言ったら怒られるかもしれませんが、熱海秘宝館を思い出しました
*8:VOCA展2020で、アルミ蒸着紙を支持体にした作品を出していた作家。
*9:https://art.tokushima-ec.ed.jp//srch/srch_art_detail.php?pno=1&no=60010
*10:監督ゲルハルト・ウィンスベガー、撮影:フランツラー、編集:ジョアンナロ・ジュースカ、音楽:ルドルト・フォーゲルがクレジットされている。特に意味はないがメモしたので記録
*11:Hermann Goepfert『オプトフォニウム(Optophonium)』の、光の壁がフィーチャーされていた。